昨年、12月2日に創立された明石会が1周年を記念して、10月13日、都内で講演会を開催した。明石会とは、司馬遼太郎の長編歴史小説「坂の上の雲」にも登場する明石元二郎にちなんで命名された会だ。同会は、日台交流の推進と、交流に貢献した方々の応援を目的としている。
講師を務めたのは池田維氏(現・財団法人交流協会顧問・立命館大学客員教授)。同氏は1962年に外務省入省後、1992年、アジア局長、官房長を経て、オランダ大使、ブラジル大使、そして財団法人交流協会台北事務所代表を歴任した。
講演は、午後1時、明石会不破光一事務局長による開会の挨拶の後、始まった。
「今日は3つの点に絞って話してみたいと思います。1つは、尖閣の領有権をめぐる議論をどう見るか、2つ目は、台湾同様に親日国でもあるブラジルの最近の動き、3つ目は、これからの台湾がどうなるのか私なりの見方を話してみたいと思います」(池田維氏)
池田氏によれば、2007年台湾の民間会社のアンケート調査で、日本、アメリカ、中国、韓国の好感度は、日本35%、アメリカ33%、韓国10%、中国 9%と、日本が好きな台湾人が増えていることがわかったという。また、それ以降の調査では、世界の中で日本が「一番好き」という人の数が40%以上を占めるようになっている、と言う。同氏はこのことが、東日本大震災に際して200億円もの義捐金が2300万人の人々から集められた背景にあると述べた。
さて、最も関心の強い中国、台湾との尖閣をめぐる問題について池田氏は、中国、台湾(中華民国)ともに、石油埋蔵についての報告書が国連機関によって公表された後の1971年まで、日本の領有について一切異議を申し立てたことはなかったと指摘した。日本は、1895年に遡ること10年前から様々な調査を行い、当時の清国の影響が及んでいないことを確認し、同年1月、国際ルールに則り、閣議決定し、島に標杭を立て、「先占」した。
日清戦争の結果、日本が割譲をうけた台湾、澎湖島とは完全に法的地位を異にする。また、日中間に「棚上げ」の合意が存在したということは事実に反する、という。1992年に中国は「領海法」という国内法をつくり、尖閣をかってに中国に編入したが、これは「棚上げ」論と矛盾している。尖閣諸島においては、117年間の日本の実効支配のもとに、かつて鰹節工場がつくられ、200人にのぼる日本人が住んでいたことがあったこと、などを池田氏は述べた。1920年には、中華民国長崎駐在領事が、「沖縄県尖閣列島」において遭難した中国漁民を日本人が救助したとして「感謝状」を出していることも紹介された。なお、今後は、日台間では、領有権ときりはなして、漁業問題として処理する必要がある、と述べた。
講演終了後、午後2時より第二部の懇親会が始まった。冒頭、明石元紹氏が来賓始め多くの参加者に御礼の言葉とともに、祖父明石元二郎への思いを述べた。次いで、挨拶に立った中津川博郷衆議院議員は、明石元二郎の功績について触れ、日本では名前があまり知られていない現状を変えていくべきだと語った。
午後2時30分、乾杯の発声を横浜華銀元理事長で、台湾人元日本兵として新聞でも取り上げられた呉正男さん(85)が行った。懇親会では、台湾にゆかりのある様々な団体、個人が交流を深めたが、その中には、単行本「世界の歴史を変えた日本人~明石元二郎の生涯~」(桜の花出版)の作者である清水克之さん、江東オペラで活躍するソプラノ歌手細沼初美さん(11月台湾公演を予定)などの顔も。
午後4時、懇親会は盛況のうちに幕を閉じた。参加者は約40名ほどだった。
ところで、主催者である明石会についてだが、会の由来でもある明石元二郎は、日露戦争時のロシア国内の騒乱工作などに関わり、莫大な工作資金を日本から調達し、ロシア革命の成就に影響を及ぼし、また、大正4年に 第7代台湾総督に就任、民政に力を入れ、遺言によって台北市の墓地に埋葬された人物として日台双方から敬愛されている人物。明石元紹氏は孫に当たる。明石会の世話人である渡邊隆氏は、次のように話す。
「日本と台湾の交流をどんどん深めて行こうと思います。台湾は日本にとって必要な国。今後は台湾と日本の交流に貢献した方を顕彰(功績をたたえる)する活動に力をいれたいと思います」