東京台湾の会、台湾協会、日本李登輝友の会の三団体は、5月28日、東京・奥多摩町の小河内ダム(奥多摩湖)峰谷右岸に建つ台湾人戦没者の慰霊碑・慰霊塔の参詣を行った。約30人が参加した。
慰霊碑は、昭和50年8月15日に台湾出身戦没者慰霊奉仕会(故・越山康委員長)が完成させたもの。碑文には次のような言葉が刻まれていた。
「台湾出身の戦没者の方々 あなた方がかつてわが国の戦争によって尊い命をうしなわれたことを深く心にきざみ、永久に語り伝えます どうぞ 安らかに永眠して下さい」
その後、昭和53年11月には高砂族の“蛮刀”をかたどった慰霊塔が完成した。すでに亡くなられた弁護士越山康さんは、台湾人戦没者に対する日本国の補償等がなされなかっことに義憤を感じながら、慰霊碑建立にふさわしい地を探し求めた結果、台湾の日月潭そっくりの風景が望まれる峰谷地区に白羽の矢を立てたという。
昭和50年以降、昭和61年頃までは、慰霊奉仕会、台湾協会、亜東関係協会、東京華僑総会の代表者などが集まり、慰霊祭や午餐会などを盛大に開催していたが、やがて関係者の高齢化などにより催しは中止となり、慰霊碑・慰霊塔そのものの存在すら記憶から消えかけていたところ、東京台湾の会の知るところとなり、3年前から再び、慰霊祭が実施されるようになった。今回は、台湾協会、日本李登輝友の会が趣旨に賛同し、共催となった。
午後12時30分より現地にて慰霊祭が行われた。臨済禅宗 地蔵院 大井博文住職の読経のなか、参加者は線香を手向け、焼香を行った。直後には、歌手古川精一さんによる鎮魂歌「海行かば」の独唱があった。
午後1時30分から現地近くの民宿旅館「馬頭館」で懇親会が催された。冒頭には、共催三団体の代表の挨拶があった。喜久四郎東京台湾の会会長は、慰霊碑の碑文を読み上げ、慰霊祭をなんとしても毎年、続けていかなければと参加者に呼びかけた。
台湾協会の齋藤毅理事長は、台湾人戦没者の慰霊祭の歴史を紐解きながら、20万人の台湾籍の兵士が日本人として参戦し、3万人の方が亡くなられた。ここで顕彰されている方々は、故郷や家族のために命をかけて尽くされた方たちであり、忘れてはいけないと誓いを新たにした。日本李登輝友の会の柚原正敬事務局長は、8年前から靖国神社で台湾人戦没者の慰霊祭を実施していることなどを報告した。
来賓挨拶は、一般社団法人亜東親善協会大江康弘会長代理(村上育雄政策秘書)だった。また、台湾出身戦没者慰霊碑・慰霊塔の建立経緯を台湾協会の根井洌理事が、「(慰霊碑・慰霊塔の)環境整備に関する奥多摩町への要望について」を三宅教雄東京合湾の会顧問が説明した。
乾杯の音頭は呉正男さんが取った。和やかな懇談のなかで、前述・臨済禅宗地蔵院住職及び江の島児玉神社山本白鳥宮司の話があった。午後2時40分過ぎ、東京台湾の会多井昭憲事務局長が閉会の挨拶を行い、一行は帰途に着いた。