舞台女優で歯科医師・エッセイエスト・ナレーターと多彩な顔を持つ、歌手の一青窈さんの実姉、一青妙さんが10月24日、都内で講演会を開催した。「私のアイデンティティについて」と題する演題で台湾と関わりの深い人々やファンが駆けつけた。
ある事件をきっかけに日本人と台湾人のハーフとしての自身の存在の意味を考えるようになったという妙さん。講演終了後、温かい、大きな拍手が会場を蔽った。主催は日台友好団体の東京台湾の会。また、講演会の2部として懇親会も開かれた。
講演に先立ち主催者として東京台湾の会の喜久四郎会長は、一青妙さんが3年来の会員であることに触れながら「妙さんはこれまでいろいろな体験と感情の交差のなかで生きて来られました。話を聞かれて皆さんに得るところがあれば幸い。それにしても今日は予想を超える方々に集っていただきありがたいことです」と挨拶した。
講演は前半が自身の家族を含めたプロフィールの紹介だった。妙さんの父親は1928年生まれ。台湾・基隆の顔家財閥(一族は九份の鉱山財閥)の3代目長男。母は1944年生まれ。石川県出身の日本人(一青姓)。1970年生まれの妙さんは小学校時代を台北(私立復興小学校)で過ごした後、父親の仕事の関係で東京世田谷区に転居し、そのまま日本に在住。14歳(中学2年)で父を、21歳(歯科大在学中)で母を病気で亡くした。「大学を卒業して歯科医になり気づいたら30代半ば。台湾とは遠いところで生きていましたね」(一青妙さん)。
ところが5年前、家の建て替えをすることになり、解体時、荷物整理をしていた時に押し入れから1つの箱を見つける。これがその後の人生を変える事件となった。
「箱の中にはたくさんの手紙、ノート、写真などが入っていて家族の思い出が詰まっていました。忘れていた台湾の記憶が、水道の蛇口をひねって一気に貫通するように昔の思い出がフラッシュバックして出て来たんですね」(同)。
これを契機に父親の足跡を辿る作業が始まった。妙さんは顔家の親族や友人たちを訪問することで、学習院に留学していた父親の終戦時の様子、1947年の台湾への引き揚げ時の様子、あるいは台湾での引き籠りの様子などを知り、「日本人として生きたかった父親の苦しみ」に近づく。「日本と台湾が政治的に引き裂かれることで父のような人間もアイデンティティが二つに引き裂かれたのだと思います。同時代の人の話を聞いて、私自身、台湾の歴史を知ることができ、今、『私は日本人と台湾人のハーフです』と言えるようになったんです」(同)。
こうした経験がエッセイ「私の箱子」(講談社)、「ママ、ごはんまだ?」(講談社)の2冊の著作に結実した。現在も妙さんの台湾を探す旅は続いており、「小さなことでもいいから合湾とつながっていきたい」と語る。日台友好団体などとの交流も活発に行っている。
後半は、今、台湾で流行している還島という台湾1周旅行の体験談だった。
第2部の懇親会は、呉正男監事が進行役を務め、三宅教雄顧問が乾杯の音頭を取った。来賓として挨拶した台北駐日経済文化代表処教育組林文通組長は「本日は一青妙さんの講演会にご招待いただきありがとうございます。東京台湾の会の皆さんが日台友好親善のために努力されていることに対して感謝申し上げます」と述べた。続けて台湾協会根井洌理事長、高座日台交流の会石川公弘会長、日本から台湾の世界遺産登録を応援する会の辛正仁さんなどが挨拶を行った。
中島欽一前理事による閉会挨拶の後、1部の司会進行を担当した松澤寛文副会長は「今日は人気エッセイエストの一青妙さんが講師ということで大勢の方が参加されました。ありがとうございました」と講演会の成功を確信していた。