台北駐大阪経済文化弁事処 蔡明耀処長インタビュー

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台北駐大阪経済文化弁事処 蔡明耀処長
台北駐大阪経済文化弁事処 蔡明耀処長(2月2日春節祭会場にて)

外交部入省以来、日本畑を着実に歩み、2013年9月、台北駐大阪経済文化弁事処長に就任した蔡明耀さんにこれまでの軌跡を聞いた。

Q幼少年時代は。

A生まれは新竹の香山というところです。父は公務員、4人兄弟です。子どもの頃は貧しい時代でしたね。電気がついたのは確か小学校4年の頃かと思います。どこの家の子どもたちも学校から帰ると皆、農作業を手伝っていました。中学は地元の香山中学には入らず、新竹市内の第二中学校に行きました。汽車通学で朝が早いのですが、母が毎日朝4時に起きてお弁当を作ってくれました。当時、祖父が遺した丘陵地で父が果樹園を始めまして、妹と水汲みなどを手伝ったことが印象深いです。しかし、これは事業としては販売対策ができておらず、大失敗でした(笑)。

Q淡江大学で日本語を学んだが。

Aスペイン語、フランス語は除外し、英語も難しいかなと考えました。日本語は漢字がありますし、父母も日本語の教育を受けていましたから親近感がありました。ただ、国立大学に日本語学科はなかったんですね。私は理科系でも法学系でもないですし、まぎれもない文科系ですから、そうなると自然と日本語学科を選ぶことになりました。大学では日本語のほかに歴史や文学や地理も学びました。淡江大学には1971年に入学しましたが、この年に台湾が国連を脱退、翌年、日本とは国交断絶です。クラスメイトの半分はいなくなりました。

Q外交部入省までのいきさつは。

A大学卒業後、叔父の紹介で紡績会社に3カ月、その後、電機メーカーで日本の技術者と台湾の従業員との間の通訳をしていました。ここも3カ月で辞めたのは78年1月は台湾の国家文官試験に合格したからです。1977年に2種、78年に1種に合格し、行政院僑務委員会に入省しました。2年間勤務した後、79年に外交官試験に合格したため辞めました。公務員の義父の勧めもあり外交官になりたいと考えるようになったんです。

Q日本勤務について

A最初の日本勤務は93年の横浜弁事処です。赴任した日、横浜は25年ぶりの大雪でした。実はこの時、横浜国立大学の大学院の国際協力コースを受験して合格しました。外交部の仕事をしながら勉強をと思ったのですが、最終的に断念しました。その後、97年から99年まで中琉文経協会駐沖縄代表に就任しました。99年は台湾で921大地震があり、沖縄から多額の街頭募金(義援金1億円以上)が台湾に贈られるなど、以後も両国の緊密な関係は続いています。2000年から07年までは台北駐日経済文化代表処の僑務部長・業務部長に就任しました。台湾で政権交代があったり、ノービザ(台湾人の日本訪問)など様々な日台関係の進展がありました。

Q昨年、台北駐大阪経済文化弁事処の処長に就任したが。

A外交部から打診があったのは昨年の2月末です。すぐに駐大阪経済文化弁事処長の人事をお受けしました。大阪に長期滞在したことはありませんし、2府18県が管轄ということで広くて大変なのですが、関西地域は台湾ととても親しく、密接な関係にあります。この関係をさらに強化できたらと思いました。

●プロフィール

1953年、台湾・新竹生まれ。淡江大学東方語文学科卒。1978年行政院僑務委員会入省。80年外交部入省。以降、アフリカやフィリピン勤務を交えながら、93年亜東関係協会横浜弁事処部長、97年中琉文経協会駐沖縄代表、2000年台北駐日経済文化代表処僑務部長及び業務部長、07年亜東関係協会副秘書長及び秘書長に就任するなど一貫して日本畑を歩んできた。09年からスワジランド王国特命全権大使、13年台北駐大阪経済文化弁事処長に就任。

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