「湾生」が語る、公開収録開始

0

臺灣電影迷(台湾映画ファンクラブ)は台湾ドキュメンタリー映画「湾生回家(わんせいかいか)」が11月より公開される事を記念し、10月より公開収録「湾生が語る」を開催している。同企画は実際に湾生をゲストに向かえ、自身の経験などを語ってもらい、それを映像にまとめ、ネット配信を通じて“湾生(戦前の台湾で生まれ育った約20万人の日本人を指す言葉)”についてより多くの人々に知ってもらう事を目的としている。

10月24日、新宿・竹林閣で行われた公開収録には同じ湾生の方や、湾生に興味を持つリスナーが集まった。今回、収録の最初のゲストとして招かれたのは、大正14年2月、台湾原住民地区の警察官の5男として台北州蘇澳郡蕃地ピヤハウ社にて出生した喜久四郎さん(91歳)だ。

当時の経験などを語る喜久さん
当時の経験などを語る喜久さん

 

幼少期、台湾原住民のタイヤル族らと頻繁な交流をしていたという喜久さんは、警察官の父の話や、野菜を持参してマッチや塩と交換をしにやってくるタイヤル族の話、タイヤル族の子供たちの話などを詳細に語り、原住民らと密な交流があった事などを伝えたほか、映像を流して当時の様子を説明するなど、普段は聞くことが出来ない貴重な経験談を話して聞かせた。

喜久さんの当時の家族写真
台湾にて。喜久さんの当時の家族写真

喜久さん最後に、「台湾は間違いなく私の母国です」と話し、引き続き日本と台湾の友好な関係が続くように願った。

喜久さんの話を聞いた湾生の小野澤紀子さんは、「今回は、娘に連れられて同会に参加しました。今まで、私は台湾の事を語る機会というのはあまり無かったので、今日は集まった湾生の方々ともお話できて嬉しかったです。喜久さんのお話と私の台湾での思い出がリンクする事もあり、とても不思議な空間を楽しませていただきました」と感想を述べていた。

湾生の小野澤紀子さん
湾生の小野澤紀子さん

公開収録は全部で約10回を予定しており、今後も何人かの湾生を招いて開催していく予定だ。収録した動画は、臺灣電影迷のサイトなどで公開される。

喜久さんとリスナーの皆さんで記念撮影
喜久さんとリスナーの皆さんで記念撮影

 

-喜久四郎氏- 台湾原住民地区の警察官の5男として、1925年(大正14年)2月に生まれ、1932年(昭和7年)4月、太平山の日台共学の小学校に入学、寄宿舎生活。高等科卒業後台北第二師範学校(後に台北師範学校を経て、現国立台北教育大学)に進学(入寮)。1944年(昭和19年)日本人移民地区花蓮港区吉野村吉野国民学校に赴任。1944年9月、歩兵隊第304連隊に入隊、10月に台湾沖航空戦でアメリカ・グラマンとの応戦に参加。1945年8月、嘉義で終戦。1946年3月、基隆より引き揚げ船に乗り、広島に上陸。本籍のある鹿児島県奄美大島に向かうも占領下にあり、親戚を頼り岐阜県に。1947年(昭和22年)よりへき地を中心に教員生活に入る。群馬県前橋で2年、以後、1949年(昭和24年~1985年(昭和60年)まで岐阜県で教職を務めた。現在は東京台湾の会で名誉会長に就いている。
-喜久四郎氏-
台湾原住民地区の警察官の5男として、1925年(大正14年)2月に生まれ、1932年(昭和7年)4月、太平山の日台共学の小学校に入学、寄宿舎生活。高等科卒業後台北第二師範学校(後に台北師範学校を経て、現国立台北教育大学)に進学(入寮)。1944年(昭和19年)日本人移民地区花蓮港区吉野村吉野国民学校に赴任。1944年9月、歩兵隊第304連隊に入隊、10月に台湾沖航空戦でアメリカ・グラマンとの応戦に参加。1945年8月、嘉義で終戦。1946年3月、基隆より引き揚げ船に乗り、広島に上陸。本籍のある鹿児島県奄美大島に向かうも占領下にあり、親戚を頼り岐阜県に。1947年(昭和22年)よりへき地を中心に教員生活に入る。群馬県前橋で2年、以後、1949年(昭和24年~1985年(昭和60年)まで岐阜県で教職を務めた。現在は東京台湾の会で名誉会長に就いている。