このほど5月で退任する事となった台北駐日経済文化代表処横浜弁事処の粘信士処長。大学卒業後、退役してより外務省に入省し32年間、寝る間も惜しんで常に走り続けてきた粘処長は、これまで様々な日台交流に貢献してきた。1990年に大阪弁事処に配属されてより通算20年間を日本で過ごし、「日本は第2のふるさとだ」と話す粘処長に本紙がインタビューし、2011年沖縄弁事処で初めて処長に就任してより現在までの約6年半、処長としての活動を振り返ってくれた。
粘処長は日台交流促進のため、数多くの団体設立の架け橋となってきた。沖縄勤務では、那覇市、宮古市、豊見城市、宜野湾市との日台議員連盟設立を実現させたほか、八重山と石垣島との台湾親善交流協会、歴代台北駐在沖縄事務所長のOB会や奨学金を取得した沖縄人台湾留学生OB会の全8団体。横浜勤務では川崎市、静岡市、鎌倉市、伊勢原市との議員連盟、さらには、若者中心の湘南日台未来交流協会及び横浜台商会の全6団体設立の仲人役となり、日台関係の更なる友好に貢献してきた。2013年11月22日に沖縄県より感謝状が授与され、今年の4月21日には新たに静岡県より感謝状が授与された事からも、粘処長が日台交流に多大な尽力をしてきた事が証明されている。
粘処長がこんなにも一生懸命に日台関係向上に力を注ぐ源は何なのか。「私はいつも言っている。『点から線、線から面へ』。先ずは重要な県や市と交流を結ぶ事で、後に幅広い地方交流へと繋がる。交流の場を提供する事ができるのは非常に有り難い事」(粘処長)。
この言葉の通り、粘処長は他にも様々な協定締結の仲介人として貢献してきた。「防災に関する相互応援協定」や「高校生の相互交流推進に関する協定」、一日周遊券の相互無償交換等を組み入れた江ノ島電鉄(以下:江ノ電)と台湾鉄道との「友好鉄道協定」に加え、粘処長のサポートにより江ノ電と高雄地下鉄が連携した事で、江ノ電の車両においてラッピング電車が実現した事も在任中に行われた実例である。さらに粘処長は、「観光交流だけでは狭すぎる。経済交流の協力ができたら良い」とし、日本の高校生の修学旅行先が昨年は台湾が最多だったが、ほとんどが観光ばかりになっていた事に言及し、「教育委員会とリンクさせれば、観光以外の勉強も兼ねた学校間の交流もできる」と新たな提案も述べるなど、日台交流促進に対するアイディアを次々に教えてくれた。
若い世代の日台交流にも貢献
粘処長が貢献した事の一つに、横浜中華学院の生徒数増加がある。粘処長自身がコンタクトやアプローチするなどして、同学院と神奈1川大学等の大学と締結を行う「高大連携」に力を入れてきた。数年前まで、同学院の中学部を卒業後、台湾に帰国したり他の日本の高校に進学する等の理由で、高校部へそのまま進学する生徒が少なかったが、粘処長が行った高大連携の成果により、毎年順調に増え続けているとの事。また、華僑の子供だけではなく、日本の親を持つ生徒が全体の25%にも上っているとし、これは大変喜ばしい事であると粘処長は話した。
粘処長、今後を語る
青春時代からほぼ40年間日本と関わってきた現在55歳の粘処長は、帰国後先ずは親孝行をしたいと話した。また、台湾の現状に頑張って追いつかなければいけないとの意気込みも語った。
休む暇なくこれほどたくさんの日台交流に貢献してきた粘処長。台湾本土に帰国しても変わらず日台関係を築いていってくれるだろう。本紙はそんな粘処長の今後の活躍を期待したい。
「退職しない限り、退化なく滞りなく台日交流にちょっとした貢献が出来たら有り難い」(粘処長)。
(2017/4/24)