日本統治下の台湾で近代教育の先駆けとなった6人の教育者(六氏先生)のうち、熊本出身の平井数馬の没後125年の式典が2月1日、熊本市の小峰墓地と熊本大学で行われ、大勢の人々がその功績に思いを馳せ、遺徳をしのんだ。
「平井数馬先生顕彰会(白濱 裕会長)」が主催し、「熊本国文研」と「日台交流をすすめる会」が協賛したもの。
2009年(平成21年)には李登輝・台湾元総統がわざわざ小峰墓地を訪れて献花するなど、平井数馬に対する台湾の人々の感謝の念は絶えることが無く、今年も陳忠正・駐福岡台湾総領事が墓参に訪れ、記念講話を行った。
墓参の後、「台湾近代教育の礎を築いた熊本出身の教育者・平井数馬先生に学ぶ」と銘打った講演会において、主催者を代表して挨拶した白濱 裕氏は、明治28年(1895年)、日清戦争の後、日本が領有することとなった台湾の近代教育は、日本全国から選ばれた6人の優秀な教師によって台北北郊の士林に作られた「芝山巌(しざんがん)学堂」という学校で始められ、台湾人子弟と寝食を共にしながら、心魂を込めて教育に当たったこと。そしてこれが「芝山巌精神」と呼ばれていること。
その中の一人であり、熊本・済々黌出身の平井数馬は、17歳という若さながら語学が堪能で、短期間のうちに「日台会話集」を編集するなど、その才覚を発揮したこと。しかしながら、明治29年元旦、彼らが約百人の匪徒(抗日ゲリラ)に取り囲まれ、全員が惨殺されてしまったこと。
彼らの教育は1年にも満たないものであったが、この悲報が伝わるや、その遺志を継ぐべく全国各地から次々に有志の教師達が渡台して台湾全土で献身的に子供たちの教育に従事し、熊本からも延べ2千名を越える教師が渡台したこと。その結果、大正期後半には、台湾における公学校、小学校教員のほぼ1割を熊本県出身者が占めて、台湾における教育は劇的な発展を遂げ、現代の先進国台湾を築く基となったこと。
平井数馬の没後125周年を迎える節目の年に当たり、国家百年の計と言われる教育の再生に向け、「芝山巌精神」に教育の根本的なありかたを学ぶ必要からこの講演会を企画したことなどを述べた。
次いで講話に立った陳忠正・駐福岡台湾総領事は、かつて小峰墓地に平井数馬の墓を訪ねた李登輝氏元総統が24年前の1996年3月に台湾で中華民國史上初の総統直接選挙を行い、民主化を成し遂げるに至った考え方や実行のいきさつを中心に話を始めた。
李登輝総統が国民に台湾の真実の歴史を学ばせることによって、台湾アイデンティティを確立させたこと。「天下為公(天下は公のため)」という信念から私心を捨て、ただ「台湾の人々に枕を高くして寝させてあげたい」という強い思いを貫いた結果、紆余曲折を経ながらも一滴の血も流さず民主改革を成功に導いたこと。
また、日本の新聞のインタビューで「日本の首相には日本だけでなくアジアの最高指導者のつもりで行動してほしい。日本の浮沈はアジアの浮沈につながるといっても過言ではないからだ。自由かつ民主的で、経済的にも先頭を行く日本こそアジアの盟主として引き続きこの地域を引っ張っていくべきだ」と期待を寄せたこと。などを紹介し、台湾と日本は運命共同体であり、日本あっての台湾、そして台湾あっての日本であると述べ、平井数馬を含む六氏先生が植えつけた台湾と日本との心と心の交流、魂と魂の交流が、今日の両国の友好関係を支えているのだと思うと結んだ。
次いで「平井数馬とその時代」と題して演壇に立った増田隆策氏(文筆家・郷土史家)は、膨大な調査資料をスライドで示しながら、「幼少年期」、「渡台」、「芝山巌学堂」、「日台会話集」、「遭難」、「慰霊」、「平井家の家系図」と順に説明したが、その内容は一般聴講者のみならず、平井家の親族にもはじめて聞くようなことが含まれているほどの綿密なものであった。
講演の最後に平井数馬の兄幸三郎氏の孫である平井幸治氏が挨拶に立ち、没後125年の今日においてなお、故郷熊本の人々や台湾の方々に墓参や追悼の会を開催してもらい、大叔父数馬はきっと喜んでいるであろうと述べるとともに、自分たちも偉大な先人の親族として、誇りをもって生きていくつもりであるので、今後ともご支援をお願いしたいと結んですべての式典を終了した。