東京都奥多摩町の小河内ダム(奥多摩湖)畔の笠松展望園に建つ台湾人戦没者の慰霊碑・慰霊塔は今年で建立40周年を迎える。
台湾協会は5月28日、東京台湾の会、日本李登輝友の会との共催にて同所で台湾出身戦没者慰霊祭を開催した。同慰霊祭には主催側関係者らのほか、奥多摩町議会の前田悦男議長、師岡伸公副議長ら議員5人を含め、約40人が参加し台湾人戦没者を追悼した。
慰霊碑・慰霊塔の前にて行われた同慰霊祭は、台湾協会の根井洌理事長による追悼の辞、江ノ島児玉神社の山本誉真奈禰宜の龍笛演奏奉納、清玉院玉川住職による読経、そして参加者全員による焼香が行われたほか、旅館の馬頭館にて懇親会も催された。
関係者によると、慰霊碑・慰霊塔建立場所には、台湾の中部に位置する湖・日月潭に類似する奥多摩湖が一望できるという理由で笠松展望園が選ばれたという。しかし現在では、木々の合間に奥多摩湖が見え隠れし、“一望”とは言えない景色になっており、関係者らからはこれを残念に思う声が多くあがっている。
これについて前田議長は懇親会にて「皆さんが希望されている木々の伐採の件は、行政に我々の意見としてしっかりと提出したいと思う」と述べ、奥多摩湖“一望”の復活に意欲をみせていた。
なお、交流協会では今後、慰霊碑・慰霊塔建立40周年を記念し、今年の9月に都内で記念パーティーを開催する予定。同パーティーでは、映画監督の酒井充子さんが制作している、同慰霊祭の様子や関係者インタビューなどを記録したVTRが披露されるという。
慰霊碑・慰霊塔、建立40年を振り返る
根井理事長によると、同慰霊碑・慰霊塔は日本兵として戦死した台湾人に対し日本政府が何の補償もしなかったことを不公平に思った人々が台湾出身戦没者慰霊奉仕会(故・越山康代表)を立ち上げ、昭和50年(1975年)8月に慰霊碑を建立。慰霊塔は昭和53年(1978年)11月に慰霊碑に隣り合うように建てられたという。慰霊碑は台湾の花蓮から運ばれた大理石で出来ており、「台湾出身の戦没者の方々 あなた方がかつてわが国の戦争によって尊い命をうしなわれたことを深く心にきざみ、永久に語り伝えます どうぞ 安らかに永眠して下さい」と刻まれている。慰霊塔は、台湾原住民の「高砂(たかさご)族」が持つ蕃刀(ばんとう)が象られ、天に向かって真っすぐに聳(そび)えている。
そもそも慰霊祭は、慰霊碑が建立された昭和50年(1975年)より約10年にわたり行われたが、関係者らの高齢化及び死去などが理由で一時は途絶えていた。そこに、近年慰霊祭が行われていないことを知った東京台湾の会の喜久四郎名誉会長が2011年5月、有志を集い再興し、その後台湾協会らが執行を請け負うかたちとなり、今日に至る。