博多祇園山笠と台湾留学生

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夏本番直前の7月15日早朝、まだ明けきらぬ博多の街の一角が熱気に包まれていた。早朝の4時59分に櫛田神社の大太鼓が打ち鳴らされると、武者人形や神仏像、龍や虎などの動物像を飾り立てた「ヤマ」と称される山車(山笠)が、揃いの法被(はっぴ)を纏い、鉢巻・褌(締め込み)姿の男たちに担がれて一斉に境内に向け走り出す。これが伝統行事として永年続いている「博多祇園山笠」であり、山笠の7月は、博多の男達がボルテージを上げ、それを支える女達が改めて男に惚れ直す季節でもある。

走りのスピードを競うヤマは七つある。「大黒流」、「東流」、「中洲流」、「西流」、「千代流」、「恵比寿流」、「土居流」、と名付けられ、「流(ながれ)」は太閤秀吉の時代から伝わる自治組織の名称で、それぞれが10~13ヵ町から構成される。櫛田神社へ走り込む順番に応じて「一番山」から「七番山」とも呼ばれ、今年は「大黒流」が「一番山」に「土居流」が「七番山」になった。

櫛田神社の境内に走りこんだヤマが広場の真ん中に立てられた「清道旗」と呼ばれる旗竿の周りを回ると、一番山に限って、男たちはそこで一旦担いでいるヤマを下ろして「祝い目出度」という唄を歌った後、再び「オッショイ、オッショイ」の掛け声とともに、決められた5kmのコースを須崎町の廻り止め(決勝点)を目指して博多の街を懸命に走る。ヤマを担ぐことを「舁く(かく)」という。

 

ところでこの福岡の伝統行事に台湾の留学生達が参加しているのをご存知だろうか?

山笠は櫛田神社の氏子町内に居住あるいは仕事場がある人でなければ、福岡市民といえども勝手に参加することはできない原則がある。この状況下で台湾の留学生達が参加できたのは何故か。

 

2015年参加留学生と仲間達
2015年参加留学生と仲間達

広く知られている様に、日本は1972(昭和47)年に時の首相田中角栄により、電撃的な「日中国交樹立」を果たし、同時に台湾との正式な外交関係が途絶える事となった。これに伴い、日台間に様々な混乱が生じ、福岡にいる台湾の留学生もその後、かなり長い間肩身が狭く心細い思いをしたと推察される。この窮状を見かねた当時の台北駐福岡経済文化辦事處の周處長は、留学生の元気を取り戻すためのひとつの方策として、2007年に山笠への参加を福岡アジア美術館の館長に相談した。そして櫛田神社の氏子町内に支店があった鹿島建設株式会社の桜井伸平氏を通じて参加の可能性を打診した。

山笠の「流れ」の自治組織は、かたくなに伝統を守り外部の人が入ることに難色を示すところも多い。しかし幸いにも桜井氏の所属していた「土居流れ」は、オープン気質な人が多かったため、快く留学生を受け入れてくれた。ところが博多祇園山笠は1241年(日本年号「仁治2年」)から始まり、国が「重要無形民俗文化財」に指定する祭りであるだけに、暗黙の約束事も多い。一方でこれを理解し、同化してもらうことが出来るだろうかという懸念があったという。

そこで桜井氏と補佐役の嶋田正明氏は、まず各年の受け入れ人数を5人に絞る事、その内の2人ないし3人は1度限りで辞めるのではなく、2年以上継続して参加する事、などの独自ルールを作った。「人数が多すぎると教育や世話が行き届かない」「締め込み(ふんどし)ひとつ身に付けるにも作法があり、仕上がりの形が決められている」。伝統ある行事に参加するためのルールは、これをもとに考案されたという。

嶋田正明さん
嶋田正明さん

さらに「流れ」の中の年長者や経験者に対する礼儀、参加者の食事の準備や後片付けを誰がどうするかなどにマニュアルがある訳ではない。1つ1つ周りの人に教わり、自分で推し計りながら、阿吽の呼吸で動かなければならない。しかし、参加者の人選を留学生会に任せて責任を持たせた事により「留学生の山笠参加がスムーズに動くようになった」と嶋田氏は言う。もちろん、細かいところで問題がない訳ではないが、問題があること自体「伝統や文化の違いを知る」ことであり、「逆にお互いの理解を深めていくきっかけになった」(嶋田氏)。同時に現留学生会会長で今年も山笠に参加した羅 允謙氏も口を揃える。二人とも「台湾人と日本人とが育った土壌には同じ部分も多いが、当然ながら全く同じでなく、違いがあるところに新しい発見があり、面白さが生まれる」と考えているようだ。

羅氏は山笠に参加して得たものとして「世代を超えた人々とのつながりが出来た事」「福岡の歴史や文化を深く理解できた事」「自分達が日本人の日本人が自分達の思考方法を知ることによって台日交流に役立てた事」の三つをあげている。さらに「有給休暇をとってまで山笠に参加する福岡の人の情熱に感心し、次は日本人に台湾のお祭りである媽祖祭に参加してもらえたら嬉しい」話している。

山笠に参加した台湾留学生のOBと日本側の世話役は現在「オッショイ会」という集まりを作っている。このメンバーは、何かと連絡を取り合い、年に数回互いにイベント参加を通じて、その後の交流を深めているという。最初に山笠に参加した薛氏が2008年9月に台北で結婚式を挙げた際、オッショイ会のメンバーが家族も含め10人招待された。何もかもしきたりの違う台湾での結婚式だったが、二人を包む家族や友人、職場の仲間の暖かい雰囲気は十分感じることができたと言う。

薛氏の結婚式の様子
薛氏の結婚式の様子

式の最後には山笠の長法被(はっぴ)を着て、参加メンバーの男性と新郎の薛氏が一緒に「博多祝い唄」を歌い、「博多手一本」で式を締めくくった。これが式の参加者に好評を博し、日台交流が大いに盛り上がったそうだ。

山笠の法被を着て(左1=薛氏)
山笠の法被を着て(左1=薛氏)

「卒業後日本に根を生やして働いている人」「世界中を駆け回って活躍している人」など、留学メンバーの進路は様々だが、この季節になると福岡に戻って来て山を舁く人もいる。「この人達の成長には、山笠の経験も大きく関わっていると思いたい」と嶋田氏。山笠の経験とそこから生まれた相互理解を次から次へと伝承し「日台の草の根人材ネットワークのさらなる発展」が留学生達の山笠への参加を実現させ、現在支援し続けている人たちの願いのようだ。

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