日本統治下の台湾で、道路、鉄道、電力などの基幹インフラ整備事業を立案・推進した第7代総督・明石元二郎の顕彰碑が郷土福岡の筥崎宮の中に建立され、4月23日に除幕式が開かれた。
明石は1864年に徳川時代の福岡藩に生まれ、明治になって陸軍大学校を卒業。武官としてヨーロッパ各地に赴任後1918年 (大正7年)に台湾の第7代総督に就任。台湾を東アジアの心臓として重要視し、高雄港の拡充をはじめ台湾電力の設立、日月潭水力発電事業、海岸線縦貫鉄道の敷設、台湾教育令や森林令の発令、司法制度の改革、鳥山頭ダム事業の承認、嘉南銀行の設立など、台湾近代化の基礎となる社会インフラの整備に尽力した。中でも教育の改革はその後の台湾の発展に大きく寄与し、その時に蒔かれた種が今日の台湾の基礎を作ったと考えられている。
明石は、1年4カ月という短い総督在任期間で台湾全土を視察して現地の事情把握に努めたが、1919年10月公務で日本に渡る洋上で病に倒れ、郷里の福岡で逝去した。55歳だった。「自分の身の上に万一のことがあったら、必ず台湾に葬るように」との遺言に従ってその遺骸は日本から台湾に移送され、台北市中心部の日本人墓地に埋葬された。歴代19人の総督のうち台湾を永遠の地に選んだのは彼だけであり、葬儀の日は約10万人が沿道から棺を見送ったという。
その後明石の遺骨は、旧日本人墓地から新北市三芝郷にある「福音山キリスト教墓園」に移され、希望通り台湾の地に眠っている。2002年には台北市で国際文化基金会の主催で「明石元二郎総督の業績をたたえるシンポジウム」が開催されるなど、台湾の人々の心に生き続けているが、その偉業が日本であまり知られていないのを残念に考えた有志が生誕地福岡に顕彰碑建立を企画し、筥崎神宮の協力を得て福岡県郷友連盟(吉田邦雄会長)が建立したもの。
関係者による除幕に続いて、参列者による玉串奉奠、ここに至るまでの苦労話や様々なエピソードを交えた関係者の挨拶、能楽師・大倉正之助氏(人間国宝)による囃子大倉流大鼓の披露など、厳粛な雰囲気の中に式典が進んだ。
とりわけ安倍晋三元首相からの下記内容の祝電をJR九州社長・会長を歴任した石原 進氏が読み上げた時には、会場から大きい共感の拍手が沸いた。
「明石元二郎元総督は、日露戦争では卓絶した働きをされ、日本の勝利に大きな貢献をされた。また、台湾総督時代には今日なお台湾の人々に感謝される事業を成し56歳の若さで亡くなった。それはあたかも命を削るごとくの働きであったのではと感じざるを得ない。その功績が日本においてはあまり知られることなく、一方台湾では没後100年を経てなお日台友好の原点を作られた方として尊敬されている。その功績を日本でも忘れてはいけない、次代に残したいという強い気持ちを原動力に、本日顕彰碑の除幕式の日を迎えられました。改めて福岡県郷友連盟をはじめとする関係各位の皆様に敬意を表します。最後に今日ご参集の皆様、関係各位の皆様の今後ますますのご活躍、ご健勝を願って心よりのお祝いの言葉とさせていただきます」