日本修改防疫政策 足跡app「ココア」將終止服務

【東京/綜合報導】日本防疫政策將進一步修改方針,不再試圖掌握確診者的詳盡資料,並決定在日後終止足跡app「ココア」的運作。

自2020年新冠疫情爆發以來,日本政府針對確診者的情報收集,採取了「全數把握」的方針。根據日媒報導,「全數把握」是指基於日本感染症法中提到的「感染症發生動向調查」的方法來施行,一線醫療機構在收到確診的患者後,必須將所有患者的資訊,例如年齡、足跡、住所、電話等向衛生單位報告。透過掌握相關情報,厚勞省得以對各地疫情進行分析、預防與診斷等對策。

8月24日,日本首相岸田文雄表示將會檢視並修改「全數把握」的方針,目的是減輕健保機構的業務壓力。隨著方針修改,未來需要向健保機關通報的個案將限定於高齡患者、極需住院治療者、有重症化可能的患者、孕婦,除此之外的確診者僅需向「陽性者登錄中心」報告,掌握確診者總數即可。

在岸田首相發表方針後,表示目前的具體措施將交由各自治體決定。然而在8月27日,岸田首相再度發表談話,一但完成政策修改的準備,將統一在日本全國導入實施。

日本數位大臣河野太郎參加13號的內閣會議後出席了記者會,在會上宣布隨著政府決定修正「全數把握」的防疫政策後,紀錄足跡是否與確診者有接觸的足跡app「ココア」將會停止運作,具體時程會在日後宣布。

東京都在同一天宣布,將會在都內施行新的政策方針,詳細的執行方法會儘速公布。

日本、ビザのオンライン申請を開始 台湾に居住する台湾籍者を対象に

日本対台湾窓口日本台湾交流協会はホームページで、日本時間9月14日12時(台湾時間朝11時)から、台湾に居住する台湾籍者を対象に、ビザのオンライン申請及び電子ビザの発給の試行運用が始まると発表した。

現在、日本に入国する場合は再入国を除き、すべての外国籍者はビザの取得が必要。今回の発表により、商用等、親族訪問及び団体観光などの「短期滞在」の渡航目的の場合、Japan eVISAサイトからビザのオンライン申請、また電子ビザの発給ができる。

なお、受入責任者となる企業、学校は入国者健康確認センターでオンライン申請し、受付済証をもらうことがビザのオンライン申請の条件だ。

新型コロナウイルスの流行によって影響された海外渡航は、この数ヶ月間徐々に回復している。その中に日本交流協会において窓口でのビザ申請の予約が取りづらい状況だ。オンライン申請を導入し、人流の減少を狙うことを期待しているようだ。

日本宣布14號起開放線上申請簽證

【東京/綜合報導】日本對台窗口日本台灣交流協會(以下簡稱日本交流協會)在官方網站上宣布,自台灣時間本月14號早上11點,開始試驗性開放網上申請簽證,以及發放電子簽證,有望大幅縮短簽證的申請時間。

依照日本政府目前的規定,除了「再入國」的場合以外,外國人入境日本都必須事先申請簽證。

根據日本交流協會的網站公告,從14號開始的線上申請簽證,主要適用於商用、親族訪問以及團體觀光等短期滯留的簽證。申請者可以透過Japan eVISA網站申請,但公告中也提醒,日方的入國擔保責任者,如企業、學校等團體,都須先到入國者健康確認中心網站(ERFS)申請,取得受付濟證之後,才能線上申請簽證。

隨著全球逐漸從新冠疫情中走出,跨國旅行的人數正逐漸恢復疫情前的繁榮狀況,也因此日本交流協會需處理大量簽證申請,造成行政效率低下,估計推出線上申請簽證後,可望提高簽證的發行速度。

日本關西媽祖會舉行二周年慶

【大阪/採訪報導】日本關西媽祖會9月10日於大東洋餐廳舉行創會二周年慶,會中創會會長川野榮子順利連任第二屆會長,到場貴賓有駐大阪辦事處處長向明德,僑務課長楊慧萍,日本欣華會會長李忠儒,林氏宗親會會長林錫璋,大阪天水連連長廣田秀夫,日本關西媽祖會顧問東鄉清龍,及會員等約三十人參加。

川野栄子會長致詞

 向明德處長致詞時表示,日本關西媽祖會成立二周年,在川野會長和所有幹部以及僑界的支持下,不畏疫情,排除萬難從台灣彰化的南瑤宮恭迎媽祖聖駕來日本,令人敬佩。媽祖文化超過千年,是華人社會非常有價值的文化寶藏,台灣的媽祖遶境已經成為世界三大宗教盛事之一,顯見媽祖文化是台灣最能連結國際向心力的活動之一。

向明德處長致詞

 向處長同時表示,成立一個僑會很容易,但是要讓僑會和諧永續經營,需要會長和所有幹部和會員的共同努力,媽祖好不容易飄洋過海來到大阪,希望大家可以相互尊重、包容、集合力量,共同守護大阪的媽祖,期許未來關西媽祖會可以成為關西地區僑胞的信仰中心,以及凝聚僑心向上提升的力量。

向處長主持切蛋糕儀式

 會中頒發給第一屆幹部功德獎狀,以及募金功德主感謝狀,並由李忠儒會長帶領大家乾杯,接著邀請向明德處長主持切蛋糕儀式,慶祝僑務委員會九十周年以及關西媽祖會創立二周年,與會人士盡情享用家鄉美食,交談甚歡。最後由關西媽祖會顧問東鄉清龍致閉會辭,全體大合照後圓滿閉幕。

李忠儒會長主持開幕乾杯
向明德處長和與會者合影

台湾VR映画が第79回ヴェネツィア国際映画祭受賞

台湾戒厳時代を舞台にしたVR映画「離れられない人(中国語:無法離開的人)」は、第79回ヴェネツィア国際映画祭クロスリアリティ部門「Venice Immersive」の最大賞「ベストイクスピアリエンス」を受賞したことが9月12日、わかった。

「Venice Immersive」は360度ビデオ、インスタレーションやバーチャルワールドなどを含む作品が対象となっており、本年度はラッヅアレッド・ヴェッキオ島で現地開催となった。ノミネートされた作品数は30部でもあり、台湾は「離れられない人」のほか、「残り(中国語:遺留)」と「赤きテール(中国語:紅尾巴)」もノミネートされた。

前回台湾の作品が同賞に選ばれたのは2017年黃心健監督の「砂の部屋(中国語:沙中的房間)」だった。

「離れられない人」チームが現地で記念写真(写真提供:中央社・陳芯宜監督)

「離れられない人」は台湾文化部所属の国家人権博物館が陳芯宜監督に依頼して作ったVR作品だ。1950年代の白い恐怖時代を背景にし、政治犯の経歴をVR技術で再現させ、視聴者に共感をもたらした。

陳芯宜監督は授賞式上で「作品の撮影は約2年間がかかり、その間は多くの方から支援を得て、本当に嬉しいです」と語り「この作品を通じて、民主主義の価値を信じて犠牲した者の精神を保ちたい」とした。

李永得文化部長は受賞後、文化部ホームページで声明を発表し「この度ヴェネツィア国際映画祭で受賞されたことは台湾市民の光栄です」と主張した。また映画内容について「台湾の民主主義は多くの方の犠牲により成し遂げました。国家人権博物館はその歴史を記録し、将来人権の発展に繋げなければならないです」と書いた。

なお、日本勢は3年連続「Venice Immersive」にノミネートされ、今回選ばれたのは伊東ケイスケ監督が作ったVRアニメーション「Typeman」だ。

台湾少年工派遣 総督の条件は「民族差別はするな」 舎監だった父 元大和市議の石川さんが語る

 「なぜ父が8400人の台湾少年工が暮らす寄宿舎の舎監になったのか」――神奈川県大和市に住む元同市議の石川公弘さん(88)は長年、疑問に思っていたが、今年6月、当時を知る関係者の親族に会い、理由を教えてもらったという。そこには小学校校長だった父、明雄さん(1893~1989年)が関東大震災時にとった行動があった。

 台湾少年工とは、第二次世界大戦時に労働力不足を補うため日本海軍の募集に応じて日本に渡った13歳~19歳の工員のこと。寄宿舎に住み、「高座海軍工廠(こうしょう)」(工廠は工場の意)などで働いた。同工場は現在の大和市、座間市にまたがる広大な敷地にあり、寄宿舎は大和市に木造2階建ての建物が40棟建てられた。4人の舎監が10棟ずつ担当し、明雄さんは4人のうち1人だった。工場では局地戦闘機「雷電」などの製造にあたった。同工場の労働者の8割は台湾少年工だったといわれる。やがて製造技術的にも台湾少年工の評価が高くなり、同工場から三菱重工名古屋航空機製作所など各地の海軍関連工場に派遣されていった。

資料を前に父のことを語る石川公弘さん=神奈川県大和市の自宅で

 公弘さんの父、明雄さんは神奈川師範(現・横浜国大)を出て、県内の小学校(当時は尋常小学校)の教諭、校長をしていた。1942(昭和17)年、藤沢市の藤沢第三小(現・鵠沼小)の校長をしていた時に、高座海軍工場の実務責任者だった海軍大佐が学校を訪ねて来て、台湾少年工寄宿舎の舎監にスカウトされた。50歳だった。それまで海軍との接点はまったくなかった。小学生だった公弘さんは「(安定した)校長の職を捨てて、海軍なんて」と疑問で仕方がなかった。

 それから80年近く、今年6月、高座海軍工場に関わった海軍中尉の子息に出会い、同工場の人事の事情を「父から聞いた」として教えてもらい、88歳になって初めて父が選ばれた理由を知った。

 石川公弘さんによると、1923(大正12)年、関東大震災が起こった直後、朝鮮人が井戸に毒を入れに来るというデマが飛び交い、いわゆる朝鮮人虐殺事件が各地で起こった。明雄さんは当時、30歳で、現在の相模原市緑区の小学校で校長を務めていた。明雄さんの住む地区でもデマが飛び交い、街道には朝鮮人を待ち構える住民の男たちがこん棒や日本刀を持って集結した。それを知った明雄さんは自転車で走り回り、「朝鮮人が井戸に毒を入れるなんてあり得ない」と暴徒化しつつあった男たちを説得、解散させた。明雄さんは地区で校長として顔が知られていたので、男たちは「校長先生の言うことだから」と応じたらしい。悲劇を未然に防いだ明雄さんの行動は、教え子を中心に話が広まっていった。

 それから20年近く、労働力不足を補うため、台湾で少年工を募集することになった。当時の台湾総督は海軍出身の長谷川清大将だった。長谷川総督は「内台一如」(内は内地、すなわち日本。日本と台湾は一つで分け隔てがないの意)をスローガンに、日台の民族差別はしない、工員で日本に行っても技師で台湾に戻す(働きながら学べる)-などの条件を付けた。海軍側も応じ、「内台一如」という考えの下で人材が集められた。関東大震災での行動から、明雄さんもその一人としてスカウトされた。

高座記念公園に立つ石川公弘さん。場所は大和市下草柳、小田急線鶴間駅から徒歩約20分

 その前、戦争が勃発した1941(昭和16)年12月の当時、明雄さん一家の親類が三井物産の社員として米国に駐在していた。それが1942(昭和17)年8月に帰って来た。身内だけになった時、こっそりと同年6月にミッドウエーで日本艦隊が壊滅的な敗北を喫したことを教えてくれ、「戦争は負ける」と断じた。小学2年だった公弘さんは聞いて驚いたという。

 「その父が海軍の仕事を受けた。負け戦を予言されたのに…」、公弘さんには理解できなかった。しかし、内台一如という事情を聞いて、「逃げるわけにはいかなかったのだろう」と合点がいった。

石川家は1943(昭和18)年、大和市の少年工寄宿舎の敷地にあった舎監住宅に、両親と子ども4人で引っ越した。公弘さんはそこから学校に通った。

 民族差別をするなということだったが、工場内では台湾人に対する差別やいじめは多々あったといわれる。李雪峰という少年工は、年上の日本人工員の理不尽な扱いにたえきれず、殴ってしまった。(殴り掛かってきたので、武術の心得がある李さんが払って、手を突きだしたら相手のみぞおちに入った、だけという説もある)。現場を見ていた海軍中尉が日本人側に非があると認め、李さんを明雄さんに預けた。明雄さんは李さんを褒め、専任寮長に抜擢したという。

台湾少年工の寄宿舎。終戦後、サヨナラの記念で撮影されたらしい(石川公弘さん提供)

 1945(昭和20)年8月の終戦で、工場にはきちんとした管理体制がなくなり、台湾少年工は取り残されて混乱に陥った。明雄さんらが説得して、李さんを中心に自治組織が結成された。自分たちで管理を行い、台湾に帰る船を手配し、翌年2月までには台湾に戻った(一部は日本に残った)。台湾少年工の身分は全員が海軍軍属だったので、自治組織が自ら交渉して退職金をもらった(退職金は千円だったの説があるが、台湾に帰ったらハイパーインフレでわずかな金額になったらしい)。また、終戦のほぼ2週間前、台湾少年工の6人が米軍機の爆撃で死亡したのをはじめ、病気などで約60人が亡くなったといわれる。働きながら学べるという約束は反故になってしまったが、それでも400人ほどが旧制工業中学校卒の資格を得た。

 一方、台湾は国民党の一党独裁、戒厳令の時代になり、自由が制限され、日本との交流が難しくなった。「日本へはお礼の手紙すら出せなくなった」と話す元少年工もいた。台湾に帰った元少年工と連絡は途絶え、公弘さんもいつしか台湾少年工のことを忘れていた。明雄さんは1989(平成元)年に94歳で亡くなった。

 明雄さんが亡くなって3年後の1992(平成4)年、元少年工のグループ30数人が「大和は第二の故郷」といって大和市役所を訪ねてきた。台湾で戒厳令が1987年に解除され民主化が進み、日本にも自由に行けるようになったのだ。

 その前、明雄さんは69歳で大和市議になった。公弘さんも父の跡を継ぎ32歳で市議に初当選、7期務め、グループが来た当時は市議会議長の任にあった。市長がたまたま不在だったため、助役と一緒にグループを迎えた。と言っても、何の目的の訪問かは知らず、面会前の心構えはなかった。いざ面会し、「台湾少年工の寄宿舎にいた」という言葉を聞いて、記憶がよみがえった。公弘さんが「父が舎監をしていた」と話すと、グループから驚きとともに「私、ランドセルを背負ったあなたを覚えている」というの声が出た。それをきっかけに台湾との交流を志すようになった。「高座日台交流の会」の会長に就いた。元台湾少年工とつきあっていると、「熱を出して寝込んでいるところを明雄さんが自分の子どものように一晩中看病してくれた」など、父への感謝を口にする人が多数現れた。

高座記念公園

 台湾少年工の寄宿舎は戦後、取り壊され、畑地になり、やがて住宅地になった。今は往時の面影はない。ただ、風呂場、炊事場は床にコンクリがうたれていたため、畑地にならず、空き地として残っていた。市議としての公弘さんらの尽力で、空き地が「高座記念公園 (高座海軍工廠 寄宿舎跡地)」として整備されている。

 石川公弘さんは疑問が解け、「台湾の皆さんは恩義に厚い。『恩は石に刻め恨みは水に流せ』を実践していることがよくわかった。これからも交流を進めていきたい。わだかまりなく台湾の皆さんと付き合えるのはやはり父のおかげ、死んだ父に感謝したい」などと言っている。