地震大国台湾は過去から何を学んだのか

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「最初は小刻みな揺れだったが、突然時計回りに大きく揺れた」台北市内に住む男性は、6月2日台湾中部の南投県仁愛郷を震源とするマグニチュード6.3の地震発生当時の様子をそう語る。最大震度は雲林県草嶺で震度6(台湾基準)。南投県日月潭、彰化県二水、彰化市、嘉義県阿里山、嘉義市、台中市大肚、台南市では震度5が観測されたほか、台北や高雄でも震度3を観測した。この地震の影響で4人が死亡、19人が負傷した。また、各地で落石や大規模な土砂崩れが発生、道路や鉄道が寸断された。中央気象局によれば「今年最大の地震」だと言う。しかし、これだけの規模の地震でありながら被害が最小限に抑えられたことは、過去に同地域で発生した大きな痛みを乗り越えた結果だと言えるだろう。

 

フィリピン海プレートとユーラシアプレートの境界に位置している台湾は、ほぼ毎日のように地震が観測されている。6月2日の地震の震源域では今年3月27日にもマグニチュード6.1の地震が発生している。台湾最大の被害を出したのも、この中部地方である。日本統治時代の1935年4月21日に発生したマグニチュード7.1の新竹台中地震。3000人以上が死亡、50000戸の建物が全半壊した。苗栗県三義郷にはこの地震で崩落した縦貫線の赤れんがアーチ橋遺構「龍騰断橋」があり、地震の脅威を今に伝えている。「老台北」こと蔡焜燦著「台湾人と日本精神」の中に登場する「君が代少年」の逸話があった地震と言えば、ご存知の方も多いはずだ。

 

戦後最大の地震は1999年9月21日に発生した921地震(台湾大地震)である。震源は南投県集集鎮で、6月2日と3月27日、双方の震源から20kmも離れていない。マグニチュード7.3、死者・行方不明者2400人、10万戸の建物が全半壊した地震は、今でも台湾人の記憶の中に強烈に焼き付いている。最大震度である震度7を観測した南投県魚池郷で被災した男性は「あたかも誰かが家を手に持って、左右に揺さぶったような感じだった」と揺れの激しさを語る。被災後は、家にある全ての家具を固定し、倒れやすいものを高所に置かないように心掛けた。「震災以降、防災に対する意識は高まった」と言う。

 

一方、地震で下層階が崩落し、80人が亡くなった台中市大里区の大型マンション「金巴黎社区」で被災した女性は「住んでいた棟は倒壊こそ免れたが、全ての部屋のドアが開かなくなり、全て壊して外へ出た。マンションのエントランスが倒壊し、塀を乗り越えて敷地外へ避難した」と話す。後になって鉄筋コンクリートの柱の中にドラム缶がつめられていたなど、手抜き工事が倒壊の原因であることが明らかとなった。震度4を観測した台北市で倒壊した東星ビルも同様だ。87人が死亡・行方不明となったこのビルは、倒壊後の調べで、設計不良と建材の強度不足が明らかとなった。

 

6月2日の地震で建物の被害が少なかったのは、1999年の921地震で耐震強度の低い建物が軒並み倒壊し、その後再建された強固な建物が揺れに耐えたことが理由の一つとして挙げられるだろう。この点は、今年4月20日、中国四川省芦山で発生した地震で、2008年5月12日の汶川地震後に再建された建物にも被害が生じたことと対照的である。台中市や南投県など921地震の被災地では震災後、地震によって隆起した逆断層を保存する教育公園が整備された。また、倒壊した廟や傾いた鉄塔がそのまま残されている場所もあり、地震の記憶を後世に伝えている。

 

しかし、台湾全土で防災意識が浸透しているかと言えば、決してそうではないだろう。苗栗市に住む男性は防災に関して「特に何もしていない」と話す。台北市の別の男性も「地震は恐いけれど、家族で話し合う機会もない」と、消極的な態度だ。「熱しやすく冷めやすい」と言われる台湾人の性格。もし別の場所で、同規模の地震が発生した際、被害が最小限に抑えられると言う保証はない。台湾に住む一人一人が、過去の経験から学び、予期せぬ災害に備えることが重要であろう。6月2日の地震で被害が少なかったのは、単なる偶然ではないことを祈りたい。