人物インタビュー 旅行業37年 台湾ツアーはお客様に安心しておススメできる人気企画

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吉田善也社長

株式会社ニッサントラベル 吉田善也社長に聞く台湾

日本政府の尖閣諸島国有化によって、日本と中国、台湾との関係が冷え込むなど様々なシーンに影響が出ている。とりわけ旅行業への影響は顕著だ。東京・新橋に店舗を構え、台湾、中国を始めとするアジア地域、オーストラリア、アメリカ西海岸と、環太平洋の国々への旅行(手配)を中心に37年の歴史を持つ旅行会社、株式会社ニッサントラベルの吉田善也社長はこう現状を語る。

「中国ツアーは現状はストップですね。とくに日本で中国からの観光客の受入れを専門にしている会社は厳しい。一般的に旅行会社は、売上げの30%程度の影響は受けているのではないでしょうか。そんななかにあって、台湾ツアーは安定しています」

ニッサントラベルは、格安海外ツアーが隆盛のなかにあって、例えば、ビジターではプレイできないゴルフ場をツアーに組み入れるなど、一味違う手作りのツアーを企画している点に特徴があり、企業や同業者組合などを中心に40代以上の利用者が多い。

「私どものビジネスは隙間産業というんですかね。長年、お付き合いしていますとお客様のなかに、自分の使っている旅行会社が一番だという意識というのか、出てきます。マイカンパニーといいますか。これが強味です」

ニッサントラベル創業に至る経緯を見てみよう。

吉田社長が生まれたのは中国の山東省青島。昭和16年のことだ。明治時代に一族が“朝鮮”で廻船問屋を経営しており、機帆船を数十隻保有して、中国に“進出”していた日本軍相手に商売をしていたという。中国には青島や大連に営業所があった。

「父が昭和18年に2度目の応召(軍)となり、(この戦争を難しいと考えて)青島の支店を一族に売って母と私を日本に帰国させたんですね。故郷は長崎の島原です」

戦争が終わり、一族が日本に引き揚げる際に3隻の機帆船の持ち帰りを許され、うち、1隻のみ島原に無事に到着。父はこれで運送業を開始した。昭和24年に船が沈没。これを機に吉田一家は長崎市内に引っ越した。

吉田社長は、地元の高校を卒業後東京の大学に進学するも父の死もあり、昭和39年に退学。翌昭和40年に自動車会社に就職した。

「10年間、働きました。(営業)コンテストで優勝すると海外旅行に行けるという報奨制度があるんですが、それで最初に行った国が台湾なんです。その後、人の世話好きが高じて旅行会社設立を決意して、ある旅行会社にお金を払って研修させてもらい、昭和52年4月に、海外旅行のオペレーションを専門にやる会社を立ち上げたわけです」

仕事は、旅行会社から海外ツアーの手配を受注するというもので、当初はフィリピンブームに乗ってマニラに社員を常駐させて売上げを伸ばした。だが、オペレーションのみではお客様の顔が見えないと翌年には社名をニッサントラベルに変更して事業内容を拡大し、現在に至る。台湾への思いを聞いた。

吉田善也社長

日台漁業交渉がまとまればうまくいく

 「一番安心してお客様を出せる国です。特に東日本大震災以降、台湾の対日感情はますますよくなったような感じがします。私は1970年に報奨旅行で初めて台湾に行きましたが、日本語を話す人がたくさんいてびっくりしました。日本の50年の統治はうまくいっていたのかなと思えてきますね。また、2003年のサーズ騒ぎ以降は、街からゴミがなくなり、奇麗になりましたし、コモンセンスというか日本人と同じ価値観をしているなと感じます。少し前、台北の地下鉄で掃除しているおばさんに『謝謝』と声をかけている人を見て民度が上がっているんだなと思いました」

 領土問題の影響についてはどうだろう?

 「一般の方は『いやなことを話題にするのはやめようよ』という感じですが、意識レベルの高い方は『漁業交渉さえまとまればうまくいくんじゃないの』と。7割から8割の人は理解されているのかなと。ただ、花蓮の団体が船を出したというのは、漁業にまつわるものなので。日本は漁業交渉を再開するということですので期待していますね」

 ちなみに吉田社長の台湾でのオススメ観光地は、国立故宮博物院、日月潭の「九族文化村」である。

 「台湾旅行人気は、台湾政府の長年のキャンペーンが実を結んだ感じがします。今は旅行客の6割は女性ですから。安心して歩ける、おいしいものが食べられるということでしょう。一方、中国ツアーは旅行会社にとっては、滞在費用が安く、収益率が高いため、ストップは厳しいのですが、私は、日本も中国も政権の狭間にあるということもあってこうなっていると思います。来年の夏まではかかるかなと考えています」

 それにしても吉田社長はエネルギッシュ!