台北駐日経済文化代表処 徐瑞湖副代表インタビュー

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8月13日付けで台北駐日経済文化代表処副代表に就任した徐瑞湖氏にプロフィールと仕事への抱負を聞いた。

徐瑞湖副代表
徐瑞湖副代表

Q日本(語)との出会いは。

A私の生まれ故郷は苗栗県大湖郷という田舎ですが両親は日本語教育を受けましたので家の中で秘密のことは日本語でしゃべるんです。子どもたちが寝た後でアイスを食べるとか、映画を観に行くとか(笑)。小さな頃から日本語を聞きなれていました。もう1つ、隣村は泰安郷といって原住民集落でした。彼らは週に1度トラックで買い物に来るんですが、家(文房具店)にもやって来ました。会話はすべて日本語だったんですね。

Q学校について。

A中学1年生まで故郷の学校だったんですが、(高校への)進学率が低いということで父が新竹に勉強しに行きなさいと、中2の時に転校しました。そこは進学率は良くて同級生は建国高級中学、新竹高級中学、新竹師範学校など全員、いい学校に受かりました。私は勉強よりもバスケットに熱中していて、いい高校にはいけず、台北師範専科学校に入学しました。父は医学校を望んでいましたが最終的には師範学校なら悪いことはしないだろうと認めてくれました。

Q教員生活は。

A5年間勉強した後、兵役2年を経て新北市の金山郷の三和小学校に赴任しました。続いて深坑小学校、3校目に台北市実践小学校に転校したところで、バレーボールチームの監督を担当することになり、台北日本人学校と練習試合をするようになったわけです。そこで日本人学校の先生との付き合いが始まりました。植木先生、大門先生、西村先生、川添先生とつながっていきました。台北日本人学校は3年が勤務期間でしたから。実は私は教員をしながら日本語の勉強をしたいと思い、淡江大学の夜間部(日本語学科)に通っていましたが、この日本人学校の先生との交際のおかげで日本語は他の生徒より上達しました。

Q外交官になったわけは。

A淡江大学に日本研究所という大学院ができまして、受験しました。受かった後は、教員を続けながら勉強しました。政治・経済を専攻しましたのは、講師が政府の高官である場合が多く、その方々はご自分の家か台北の分校で教えることが多く、淡水まで通う必要がなかったこともあります。ただ、人より1年多く、3年半費やして卒業(修士)しました。

その後、外交官試験に合格しまして、父も大変、喜んでくれました。ただ、当時は進路上の選択肢はいくつかございました。

Qその意味は。

A小学校で校長先生になるか、外交官試験を受けるか(3回挑戦)、筑波大学への入学許可をもらっており(交流協会の奨学金も受かっていた)、将来大学の先生になるか、という3つの選択肢がありました。外交官になった場合、12年間の教員生活の勤務年数も合算されることもございまして、結局、外交官に挑戦したわけです。

Q外交官になってから。

A最初は亜東関係協会薦任科員として日本の国会議員、地方議員、地方の親善協会の方々のアテンドをしておりました。1990年1月に代表処書記官として来日し、1995年7月まで5年半勤務しました。蒋孝武代表が約1年半、その後、許水徳代表に代わりました。総務課長をさせたいただいた後、やがて業務部(政務部)に移動し、以後はずっと業務部です。台湾に戻り、亜東関係協会秘書科長になりましたが通常より長い勤務になりました。というのは、本来は4年半で大阪弁事処に行く予定が1999年9月21日の大地震の際、日本からの救援隊のアテンドに尽力したことが認められて、半年後の東京勤務に変更になった次第です。

2回目の代表処勤務は2000年から2006年ですが、肩書が業務部次長になっていました。これは名義だけだとしても破格の扱いだったと思いますね。6年間業務部で勤務し、正式な副組長となって台湾に帰国しました。亜東関係協会では2006年から2009年夏まで勤務し、2年ほど副秘書長をやりましたが、札幌に新しい事務所作ることになり。準備のために2009年8月に札幌に入りました。

Q札幌での仕事は。

A新しい総領事館ということで自分にとって、外交官にとって初代弁事処長というのはこれ以上、誇りある仕事はないなと思いました。12月1日にオープンしました。私にとって北海道の4年間は外交官のキャリアのなかでかけがえのないものになりました。例えば北海道の観光都市には日台親善協会を10ヵ所作りました。観光客に事故があった時に電話1本ですぐに対応できます。10月8日には北海道日台親善連合会発足会議がありました。これから正式に立ち上げます。今後も増えるでしょうし、会員数は1000人以上です。私の送別会には北海道高橋はるみ知事、加藤礼一北海道議会議長ほか大勢の方々がいらしてくださいました。

Q8月に副代表に就任されたが。

A東京勤務が11年半、そのうち9年は政務でした。今回は羅坤燦副代表の後任として来ました。私にとっては副代表というよりは外交官にとっての最後の花道です。私も1952年生まれ現在61歳。定年は65歳ですから4年はあります。北海道勤務を合わせると東京での仕事は2年はあるのではと思います。全力投球で台日関係をもっといい方向に促進されるよう努力したいと思います。副代表の仕事は代表を補佐し、また、代表の指示を受けて、代表が与えられた任務や政府の政策をできるだけの力を出して達成する、使命を果たすということだと思います。

徐瑞湖副代表:1952年生まれ。台北師範専科学校卒業、淡江大学日本語学科(夜間部)卒業、淡江大学日本研究所修士。1973年台北県、台北市小学校教師、86年外交部に入り、亜東関係協会薦任科員、90年台北駐日経済文化代表処書記官、95年亜東関係協会秘書科長、00年台北駐日経済文化代表処業務部次長、06年外交部日本事務会諮問委員、専門委員、08年亜東関係協会副秘書長、09年台北駐日経済文化代表処札幌分処処長、2013年8月13日台北駐日経済文化代表処副代表。

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