樺山国民学校在校生の会が約50年の歴史に幕 ~湾生は永遠に~

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「終戦時、私は台北市立樺山国民学校在学中に日本に引き上げました。つまり樺山国民学校を永遠に卒業出来なかったのです。その刹那さから、在校生で構成する会を結成しました」(吉森康代さん)。第二次世界大戦後、台湾に在住していた日本人が日本へ送還されたが、そのうちのおよそ半数は台湾で生まれた日本人、いわゆる「湾生」と呼ばれる人たち。その“湾生”の会の1つ、「樺の葉会・終戦時在校生の会(以下:同会)」が6月5日、渋谷の台湾料理店「麗郷」で最後の総会を開催した。

最後の総会を開催した、「樺の葉会・終戦時在校生の会」
最後の総会を開催した、「樺の葉会・終戦時在校生の会」

台北市立樺山国民学校終戦時在校生(現在81歳~75歳)からなる湾生の会は、毎年6月の第1日曜日に同窓会総会を渋谷の台湾料理の老舗・麗郷で開催するのが恒例になっていた。吉森さんによると、約50年間、毎年集まり当時の想い出話などを語り合ってきた同会は、メンバーの年齢や体力的にも今年が限度と判断し、この総会を最後の総会にしたという。

鹿児島や仙台などの遠方よりわざわざ駆けつけたメンバーもいた
鹿児島や仙台などの遠方よりわざわざ駆けつけたメンバーもいた

当日、同会の解散を惜しむ平均年齢80歳の同学校在校生ら31人は、鹿児島や仙台などの遠方よりわざわざ駆けつけ、日本統治時代の地名を使用したビンゴや、当時の想い出を短歌で発表するなどして別れを惜しんだ。

当時の想い出を短歌で発表する吉森康代さん
当時の想い出を短歌で発表する吉森康代さん
日本統治時代の地名を使用したビンゴ
日本統治時代の地名を使用したビンゴ

長年同会を取り仕切っていた吉森さんは、「私の台湾人のお友達の中には、『日本人が長男で僕たちは次男という台湾の人たちがいて、お兄ちゃんの言う事は何でも聞くよ!』という人もいて、それほど親日な人たちがいるのはとても嬉しい事。また、ある同級生は、自分の孫が日本人のお婿さんをもらって『こんな嬉しいことは無い』と、とても喜んでいた。その気持ちが本当に嬉しい。台湾の位置づけは厳しいけれど、せめて民間交流を促進させて、交流を続けて行きたいなと思う。そして、色々な事を乗り越え、今、日台の盛んな交流が各地で行われている事はとても喜ばしい。私たちの孫の世代など、若い世代の交流も、もっともっと盛んになってほしい。私たちの想いを引き継いで欲しい」と話した。

また、当時少なかった台湾人在校生の藤原貞子さんは、「吉森さんとは、当時から変わらず親友です。戒厳令の発令時は、日本語を話してはいけないから車の中で日本語を使って話した想い出もあります。終戦で吉森さんが日本に引き上げてしまう時はとても辛かった。数年経過後に、空港でやっと再会できた時は涙がでるほど嬉しかった。私は日本人が大好きなのです」と涙ながらに話した。

当時からの親友だという吉森さん(右)と藤原さん
当時からの親友だという吉森さん(右)と藤原さん

同会は、今年企画されている台湾旅行をもって解散を迎える。会は無くなれども、メンバーはそれぞれの心の中で「台湾という場所は特別な唯一無二の存在である」と。笑顔で口々に台湾の想い出を語る姿からもその想いは充分に伝わって来る。台湾生まれの日本人、“湾生”の存在なくして、現在活況を呈す日台の民間交流は語れないという事が取材を通して感じずにはいられなかった。