鄭成功生誕の地「平戸」を訪ねて

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 平戸市は九州本土の最西端にある人口3万3千人程の風光明媚な都市である。鄭成功は1624年に、この平戸の川内地区で産声を上げた。父は中国の福建省出身の海商、鄭芝龍で、母は平戸武士の娘、田川マツとされている。鄭成功は7歳まで平戸で暮らしており、その事跡は現在に至るまでこの街で大切に伝承されている。平戸市の黒田成彦市長に貴重なお話を伺うことができた。

平戸市の黒田市長
平戸市の黒田市長

 17世紀の日本、中国、台湾を駆け抜けた英雄鄭成功が平戸出身ということは、日本ではあまり知られていない。なぜなら歴代の平戸市長は複雑な国際政治の枠組みを配慮して、鄭成功と平戸市との国際的なつながりを十分にアピールしていなかったため。このため、その役割は民間団体である平戸川内地区の有志が長く担っていた。しかし、英雄鄭成功の事跡を顕彰するのに遠慮は不要と黒田市長はその枠組みを突き破った。それ以来、毎年2回は台湾を訪問し国際交流に努めている。
鄭成功坐像と小さな母子像(平戸市長応接室)
鄭成功坐像と小さな母子像(平戸市長応接室)

 黒田市長は平戸市の旧生月町という離島出身(現在は生月大橋で繋がっている)で、離島のため、なり手が少ない診療所に台湾出身の医師が赴任してきたという幼少期の体験が、台湾や中国に対する親近感を覚えるきっかけになったという。
 
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 平戸には台湾・中国と日本を繋ぐ偉大な先人の鄭成功が生誕している。台湾や中国のように盛大にというわけにはいかないが、平戸ならではのアプローチがあるのではと、今年の事業計画に鄭成功の生家を鄭成功居宅跡地として再現する事業を盛り込むことにした。着工は今秋からで、来春には落成の予定だ。また、台湾人観光客の多くが4泊5日の旅行を好むことから、九州の5都市(福岡市・武雄市・嬉野市・雲仙市・平戸市)を巡るパックツアーをPR。7月14日には、鄭成功誕生祭が平戸鄭成功居宅跡地で催される予定だ。この誕生祭の主催は平戸観光協会と鄭成功生誕祭実行委員会が務める。
【鄭成功児誕石】母マツは貝拾いの際に陣痛が起こりここで鄭成功を生んだ
【鄭成功児誕石】母マツは貝拾いの際に陣痛が起こりここで鄭成功を生んだ
【鄭成功居宅跡】 鄭成功の母マツと福松(鄭成功の幼名)の母子像
【鄭成功居宅跡】 鄭成功の母マツと福松(鄭成功の幼名)の母子像

 鄭成功がまだ平戸に住んでいた頃、東アジアでは1624年にオランダが台湾を占領し他国の交易船に高い関税をかけ、日本では徳川幕府が徐々にキリシタンに対する弾圧を強め、オランダ・スペイン・ポルトガルとの通商にも支障が出始めていた。
【金比羅神社】鄭成功海戦の図(贈 馬場昭三)
【金比羅神社】鄭成功海戦の図(贈 馬場昭三)

 長崎ではキリシタン摘発のための踏絵が始まり、平戸ではタイオワン事件により長崎のオランダ商船が抑留され、平戸オランダ商館が一時閉鎖される事態になった。その頃、中国の福建で明の海軍総督となっていた父鄭芝龍は、このように激動する東アジアの情勢を考慮して、鄭成功を呼び寄せることにした。その時鄭成功は7歳、1630年のことだった。その後の鄭成功は、1646年から1662年まで劣勢の明朝に父親に逆らってまで忠節を尽くして軍勢を率い、物量で勝る強大な清朝に抵抗を続け、当時台湾を占領していたオランダから台湾を開放した。この父に逆らってまでというのは、鄭芝龍はもともと商人兼海賊であり明の懐柔によって海軍総督となっていただけで忠誠心が薄く、一族の安泰が図れるならと清に寝返ってしまったため、寝返りを諌めた徹底抗戦派の鄭成功が父と袂(たもと)を分かったとされる。このほか、鉄人部隊(全身を甲冑で覆う白兵部隊)や倭銃隊(日本式火縄銃部隊)といった日本式戦闘術を取り入れた精鋭部隊を組織し、劣勢でも兵力に勝る清軍に勝利を得ることができるよう尽力した。
【川内観音堂】父鄭芝龍が奉納した媽祖神像と随身(千里眼〈左〉と順風耳〈右〉)
【川内観音堂】父鄭芝龍が奉納した媽祖神像と随身(千里眼〈左〉と順風耳〈右〉)

 また、日本乞師といって徳川幕府に援軍を求めたり(援軍は派遣されなかったが、物資援助・浪人の渡航黙認はあった)、この時の国姓爺船に乗って大儒朱舜水(徳川光圀に重用された)や僧隠元(インゲン豆や煎茶を伝える)が日本に亡命してきている。日本が鄭成功に与えた影響も、与えられた影響もかなり大きいといえる。
鄭成功について語る鄭成功廟馬場祭主(左)と台湾新聞社の錢社主(右)
鄭成功について語る鄭成功廟馬場祭主(左)と台湾新聞社の錢社主(右)
【鄭成功廟】1962年に建立された鄭成功廟・台湾台南市の明延平郡王祠から分霊されている
【鄭成功廟】1962年に建立された鄭成功廟・台湾台南市の明延平郡王祠から分霊されている
【鄭成功居宅跡】梛(なぎ)の木は鄭成功が植えたものとされる良縁の木である
【鄭成功居宅跡】梛(なぎ)の木は鄭成功が植えたものとされる良縁の木である

 鄭成功の伝承について平戸観光協会にお話を伺った。いまもなお平戸に残る鄭成功の伝承を大切に守り続ける人物がいるとのことで、鄭成功廟祭主の馬場昭三氏をご紹介頂いた。鄭成功廟の前で、馬場祭主は幾つかの大切な資料をもとに語ってくれ、馬場祭主が6年前に台湾の鄭成功祭に招かれたときのことを、台湾のある名士は、「鄭成功が忠義をつらぬくことができたのは、日本人の血を多く引いていたから」とし、父の鄭芝龍の方の影響が強ければ英雄と崇められることはなかっただろう、と話した。母親が偉大で武士道を学ばせていたからこそ、今日の鄭成功があると聞かされた。母マツについて簡単に触れると、鄭芝龍との間に鄭成功の他にもう一人子をもうけている。田川七左衛門である。彼は母の実家である田川家を継いだ。母マツは鄭成功に幼少の時から中国語に加え、武士道を叩き込んでいた。鄭成功の生家から15キロも離れた剣術道場に通わせて武士というものを学ばせたのだ。平戸から母マツが福建に渡ったのは1645年、実に15年ぶりの母子再会を果たした。しかし、その翌年には清軍の福建侵攻があり、父鄭芝龍が清に寝返った際の混乱に乗じて、清軍は鄭一族の本拠地安平を強襲した。この時、母マツは清軍に包囲されたため自決した。武士の娘らしい立派な最期であったという。
【松浦史料博物館】鄭氏の印(父鄭芝龍が使用していたもの)が展示されている 
【松浦史料博物館】鄭氏の印(父鄭芝龍が使用していたもの)が展示されている 
【花房道場跡】剣術道場跡に建つ碑、隣には渡航前に植えたといわれる椎の木の2代目がある
【花房道場跡】剣術道場跡に建つ碑、隣には渡航前に植えたといわれる椎の木の2代目がある

 馬場祭主は、このように偉大な母親のことが平戸で影も形もないといい、それは大変申し訳ないことだと平戸の人々から寄付や募金を募って3年前に母子像を建立した。馬場祭主はこれだけではなく、鄭成功の居宅跡に建つ金比羅神社に鄭成功海戦の図を奉納したり、鄭芝龍が奉納した媽祖像が祀られている川内観音堂の管理も行っている。馬場祭主は平戸にある鄭成功が7歳まで育った居宅跡で、梛(なぎ)の木について話し、この木は鄭成功が植えたとされる日本では珍しい木で、葉が強く裂けないことから良縁の木とされ、この地域の娘が嫁に行く際にお守りとして渡すのだと説明した。鄭成功の遺徳は時代も海も越え、今も尚平戸で大切に伝承されていると話している。また、これからも平戸で母が子を育て、ここから国際的に活躍する第二の鄭成功が生まれることを心から祈念したい。