第7代台湾総督「明石元二郎」のドキュメンタリー映画が完成

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上映会に集まった人たち。右下は映画のワンカット

日本統治時代の台湾で第7代総督として台湾の近代化に尽力した明石元二郎(1864~1919)の生涯などを描いたドキュメンタリー映画「我、死して護国の鬼とならん」が完成して7月3日福岡市総合図書館内の映像ホール・シネラで上映会が行われ、陳銘俊・駐福岡台湾総領事も飛び入り参加したトークショーが開かれた。

明石は幕末の1864年に福岡・大名町で生まれ、陸軍の幼年学校、士官学校、陸軍大学校を経て情報将校となり、ヨーロッパにおいて対ロシア諜報活動を行い、日露戦争における日本の勝利に貢献した。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げた」と称えたと伝えられる。

その後、1918年(大正7年)7月に第7代台湾総督に就任、在任中は台湾電力を設立して水力発電事業を推進したほか、西海岸の鉄道敷設と高雄港の整備、台湾人にも帝国大学進学への道を開いたり、今日でも台湾最大級の銀行である華南銀行を設立した。また、八田與一が嘉南平原の旱魃・洪水対策のために計画した嘉南大圳の建設を承認し、台湾総督府の年間予算の3分の1以上にもなった建設予算の獲得に尽力した。

総督在任1年4か月の1919年(大正8年)10月、公務のため本土へ渡航する洋上で病を得て郷里の福岡で死去したものの、「余の死体は台湾に埋葬せよ。いまだ実行の方針を確立せずして、中途に斃れるは千載の恨事なり。余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」との遺言によって、遺骸はわざわざ福岡から台湾に移され、台北市の三板橋墓地(現在の林森公園)に埋葬された。

映画化は、このような偉業を成し遂げた人物が地元福岡で意外に知られていないことを憂慮した有志が今年4月に福岡市東区の筥崎宮外苑に顕彰碑を建立したことを記念して企画され、明石の生涯や功績と、顕彰碑の建立に情熱を注ぐ人たちの姿をドラマとドキュメントタッチで描き、作家でジャーナリストの門田隆将氏が要所を解説している。

筥崎宮外苑に建立された顕彰碑

上映後には異色のキャストとして再現ドラマの明石役を演じた元宝塚歌劇団男役の 穂高ゆうさんを真ん中に森田拡貴監督、井上政典・歴史ナビゲーター、観客代表の 伊豆ほずみさん、それに陳銘俊総領事が飛び入りで加わってトークショーが開催された。

上映後に開催されたトークショー

森田監督は「制作当初は明石の業績だけに重点を置こうとしていたが、ロシアのウクライナ侵攻が始まったことで日露戦争とウクライナ戦争のイメージが交錯し、今こそ明石元二郎のような存在が日本に必要だということを、この映画から分かってもらえれば幸いだ」と語った。 

観衆代表の 伊豆ほずみさんは「明石が生まれた福岡に住む人間として、いま世界情勢を正面から考えなければならないことを痛感した。この映画から得たことを周囲に繋いでいきたい」と話した。

顕彰碑の建立から映画作りまで推進役を務めた井上政典氏は「明石元二郎というとどうしても固く響いてしまうが、明石役に抜擢した穂高ゆうさんがそれを薄め、観客との距離を縮めてくれた」と話した。しかし、当の本人は「細い体を大きく見せるため、軍服の下に2枚のセーターを重ねたことや、宝塚の男役以来25年ぶりの付け髭に戸惑った」と会場を笑わせ、苦労話を披露した。

陳銘俊総領事は「福岡に来る前に蔡英文政権の機要室主任として3年間総統府に勤務したが、明石はその建物(旧総督府)を完成させた人でもあり、不思議な縁を感じている。明石総督の時代は激動の時代だったが、それは今も同じ。当時ロシアは自国民に鉄砲を向けた。現在も自国民を機関銃やタンクで鎮圧する国が日本の近くにある。こんなことはあってはならない。日本はその国にODA(Official Development Assistance:政府開発援助)で3兆円もの資金を提供したが、それはどこへ行ったのか?弟分の国に渡って日本に向けたミサイルになっているという人もいる。本当に悲しいことだ。今の日本は大きいマーケットに目がくらんで、自国の安全を忘れているような気がしてならない。『明石工作』は日本を救ったが、いま日本は逆に工作を受ける立場になっている。今日の映画が今後の日本と台湾のあるべき姿を考えるきっかけになることを願っている」と述べた。

映画の感想を述べる陳銘俊総領事

最後に井上政典氏から「この映画を一人でも多くの人に見てもらいたい。学校や地域のサークル、団体での上映要請は、株式会社ワクワク化計画(森田監督=090-3075-3123)まで連絡をお願いしたい」との話があり、すべてを終了した。